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所郁太郎

[2018年8月3日]

所郁太郎 贈従四位頌徳記念碑

【種別・種類】町史跡
【所在地】大野町大字西方
【指 定】平成5年2月19日

 元治元年(1864)、長州藩士で正義派の井上聞多は俗論党の刺客に襲われ瀕死の重傷を負いましたが、所郁太郎が畳針で傷口を縫合して九死に一生を得ました。聞多は後に明治の元勲井上馨公爵となり、郁太郎の従四位追贈に尽力し郁太郎生家の甥を養育して所家の再興を図りましたが建碑は果たせませんでした。これを知った渡邉世祐博士が孫の井上三郎公爵に建碑の件を進言し、記念碑が建てられました。
 建碑の場所については、当初出生地赤坂が有力でしたが、11歳の郁太郎を養子として慈しみ育て思いのままに学ばせながら、大垣藩の追及により廃絶した所伊織家と離散した郁太郎の妻子を思いやった西方の人の尽力で、郁太郎が育った伊織家の跡地に建立されました。築山の石は谷汲石・礎石は寝府川石です。

所郁太郎

 天保9年(1838)赤坂の矢橋家に生まれ、11歳で西方の医師所伊織の養子となりました。14歳で養母の兄横山三川に漢学を、加納藩の儒医青木松軒に医学を学びました。18歳のとき京都に遊学し、安藤桂洲のもとで西洋医学や蘭語などを修めました。後に越前大野の洋学館や大阪の緒方洪庵の適塾で学びました。文久2年(1862)適塾を辞め帰郷し、伊織の娘たつと結婚しました。結婚後すぐに再び京都に上り、現在の伏見五条周辺で医者を開業しました。郁太郎は住居近くにあった長州藩士と交流を深め、長州藩邸に仕官しました。文久3年(1863)七卿落ちに随行して長州に下り、正式に長州藩召抱えとなって遊撃軍参謀兼医院総長に任じられました。遊撃軍は高杉晋作率いる奇兵隊に次ぐ勢力をもち、遊撃軍参謀の職は新規召抱えとしては異例の重職でした。当時の長州藩は正義派と俗論党の二派に対立していましが、郁太郎は正義派の一員として高杉晋作とともに活躍し藩論を統一しました。元治2年(1865)幕府の第2次長州征伐に対抗するため長州藩は緒隊を各地に配備していました。遊撃軍も吉敷(現山口市)に布陣していましたが、郁太郎は不幸にも陣中で腸チフスを患い、元治2年3月没しました。享年28歳。

贈従四位頌徳記念碑

贈従四位頌徳記念碑

所郁太郎写真

所郁太郎

嚶鳴(おうめい)フォーラム

 嚶鳴(おうめい)フォーラムとは、ふるさとの先人を通して、よりよい21世紀のまちづくり、人づくり、心そだてのあり方を探り、実現してゆくことを目的としたフォーラムです。平成19年(2007年)、上杉鷹山の師・細井平洲を顕彰する愛知県東海市の呼びかけにより、全国13自治体が参加して「第1回嚶鳴フォーラム」が開催されました。
 大野町は平成22年(2010年)、大分県竹田市で開催された「第4回嚶鳴フォーラム」から所郁太郎の顕彰を通して参加しています。

 【嚶鳴フォーラムホームページ】
  URL: https://www.tokai-arts.jp/oumei_forum/

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