【種別・種類】 岐阜県/大野町指定史跡
【所在地】 大野町大字上磯
【指 定】
亀山古墳 昭和49年6月12日 県史跡指定
北山古墳 昭和49年6月12日 県史跡指定
南山古墳 昭和53年2月24日 町史跡指定
上磯古墳出土鏡 昭和49年6月12日 県重要文化財指定
上磯古墳群は、前方後方墳の北山古墳(県指定)・南山古墳(町指定)、前方後円墳の亀山古墳(県指定)の3基が現存しています。この他、笹山古墳と3基の小古墳が削平されたことが知られています。
北山古墳、亀山古墳から3面の鏡が出土しています。
◆亀山古墳(前方後円墳 / 主軸全長約98.2m、後円部径約62.0m、高さ約8.5m)
宝永7年(1710)、後円部頂上より2m程のところから、朱に染まった冠・大刀・矢茎などの武具類の副葬品が出土したそうですが、村内に流行病が発生したので、すぐに埋め戻されたといいます。
文政12年(1829)、前方部に真宗学寮を建設した時に、鏡2面(四獣鏡と六獣鏡)が発見されました。共に県重要文化財に指定されています。
◆北山古墳(前方後方墳 / 主軸全長約83.0m、後方部幅約50.0m、高さ約7.9m)
明治42年(1909)、八幡神社社殿の建築工事中、鏡(内行花文鏡)・直刀片・鉄鏃・鉄斧・朱・土師器が出土したと記録されています。内行花文鏡は県重要文化財に指定されています。
◆南山古墳(前方後方墳 / 主軸全長約96.3m、後方部幅約56.0m、 高さ約8.5m)
明治42年(1909)に、墳頂に鎮座していた白鬚神社を北山古墳に合祀した後、長年にわたって土取りされたため、後方部の一部しか残っていません。昭和47年(1972)、県営ほ場整備事業の農業用水路改良工事によって北端部が掘削された折、多数の土器、さじ状の木器、木の実、炭化した茅等が出土したことから、古墳造営以前には、弥生時代の遺跡があったと考えられています。
◆笹山古墳(前方後方墳/ 主軸全長50m以上(推定)、後方部幅約40.0m、 高さ不明、周濠幅約12m程度(推定))
大正2年(1913)の開墾によって滅失し、長らく円墳だと考えられていましたが、平成22年(2010)に天理大学が実施した地中レーダー探査によって前方後方墳であることが判明しました。令和2年に行った内容確認調査の結果、後方部にテラスが巡ること、出土遺物から築造時期が3世紀頃に遡ることがわかりました。
亀山古墳(西から)
北山古墳(東から)
南山古墳(西から)
笹山古墳の内容確認調査時の様子(調査区西から)
写真左:四獣鏡(直径12cm余) /中央:六獣鏡(直径13.7cm) /右:内行花文鏡(直径13.7cm)
大野あけぼのミュージアム所蔵
【概要】
平成30年度から国史跡指定に向けた調査を実施しています。
令和6年度は、亀山古墳と南山古墳の周濠(古墳周囲の堀)を発掘調査しました。
【調査期間】
令和6年12月-令和7年1月
【調査成果】
亀山古墳では、古墳の規模・範囲を確定させるため4地点で発掘調査を実施し、結果は次のとおりです。
・3地点で墳丘裾(すそ)(古墳の端)を検出し、墳丘長が103mを測ることがわかりました(従来は推定98m)。
・周濠が前方部・くびれ部・後円部で検出され、全周に巡っていたこと、後円部の周濠が幅10mだったことがわかりました。
・後円部に、幅約3mの陸橋(周濠の外から墳丘に渡る通路)があることがわかりました。
・出土遺物はありませんでした。
南山古墳では、1地点で調査を実施しました。結果は次の通りです。
・後方部南側で、削られた墳丘の基盤と墳丘裾を検出しました。
・南側に周濠が巡ることを確認し、南の町道近くまで調査しましたが、周濠の端は確認できませんでした。
・出土遺物は土師器などがありますが、古墳に伴うものかどうかは検討中です。
・周濠内から中世の遺物(青磁・山茶碗など)が出土しました(近くにあったという「塚越寺」のものかもしれません)。
※ 今後の研究により見解が変わることがあります。
【概要】
令和5年度は、北山古墳の周濠(古墳周囲の堀)を発掘調査しました。
【調査期間】
令和5年10月-12月
【調査成果】
北山古墳の規模・範囲を確定させるため5地点で発掘調査を実施しました。
調査の結果、4地点で墳丘裾(すそ)(古墳の端)を検出し、墳丘の規模を確認しました。これにより墳丘長85mを測ることがわかりました(従来は83mと推定されていました)。また、過去の調査結果と合わせて周濠範囲をほぼ確定させることができました。
周濠の底からは、高坏(たかつき)や器台(きだい)といった土器が出土しました。現在、これらの土器の年代をもとに北山古墳の築造年代調査を進めています。出土した土器については、あけぼのミュージアムで展示予定です。
※ 今後の研究により見解が変わることがあります。